アラカルトとは何か?

食堂などで、客が自由に選んで注文できる一品料理。「―メニュー」⇔ターブルドート。 しかし、ゲルゲル王国の黄金時代は長くは続かず、1651年、ゲルゲルの王が家臣の謀反をきっかけとしてクルンクン(現在のスマラプラ)に遷都すると、その実権は各地に拠点をおいた貴族家の手に移ってしまう。そして、17世紀から18世紀にかけて、各地の貴族は自らがマジャパヒト征服時の貴族(とりわけ、ヒンドゥー教高僧ワオ・ラオ)の正統な末裔であることを自称するようになり[11]、クルンクン王国のほかに7つの小国(タバナン王国、バドゥン王国、ギアニャール王国、カランガスム王国、バンリ王国、ムンウィ王国)が乱立し、バリ島は群雄割拠の時代を迎えることとなった。 17世紀には、オランダ東インド会社を始めとしたヨーロッパ勢力による進出が見られたが、これといった特産品のないバリ島は植民地統治上特に重視されず、各地方の王族の支配によるバリ人による自治が長く続いた(ちなみに、バリ島に最初に上陸したヨーロッパ人は、1597年のオランダ商船乗組員であった)。 このバリの王国の権力構造を分析した人類学者のクリフォード・ギアツは、それを「劇場国家」のメタファーで描き出している。すなわち、ギアツによれば、 〔バリの〕国家が常に外国為替証拠金取引したのは演出(スペクタクル)であり儀式であり、バリ投資信託の執着する社会的不平等と地位の誇りを公に演劇化することであった。バリの国家は、王と君主が興行主、僧侶が監督、農民が脇役と舞台装置係と観客であるような劇場国家であった[12]。 こうしたギアツの劇場国家論は、確かに象徴人類学の金字塔であったが、しかし、その後、「洗練された象徴世界の解読は時間なき固定化された世界を描き出し、実践が生み出される歴史過程を喪失」[13]しているとの批判が生まれた。そして、21世紀初頭では、儀礼世界と権力世界との二項対立を乗り越えた分析によって王国の歴史的過程には大きな流動性が存在していたことが明らかにされ、「王国の流動性を制するからこそ王の存在とその力は明らかとなり、その力によって階層秩序が支えられている」[13]ことが描き出されている。 オランダによる植民地化とバリ・ルネッサンス(20世紀前半) ガムラン19世紀末になると、当時の帝国主義的風潮の下、資産運用がバリ島の植民地化を進め、各地の王家を武力により支配下におき始める。まず1846年にバリ島側の難破船引き上げ要請を口実として、東北部に軍隊を上陸させ、ブレレンとジュンブラナを制圧。徐々に侵攻を進め、1908年には、最後に残ったクルンクン王国を滅ぼし、全土を植民地とするに至った。しかし、この際にバリ島の王侯貴族らがみせたププタン(無抵抗の大量自決)によってオランダは国際的な非難を浴びることとなり、オランダ植民地政府は現地伝統文化を保全する方針を打ち出すことになった。 この伝統文化保護政策にとって大きな影響を与えたのが、1917年のバリ島南部大地震以降の厄災である。この地震による死者・負傷者はそれぞれ千名を上回り、さらに翌1918年には世界的に流行したインフルエンザがバリにも波及、さらに1919年には南部バリでネズミが大量発生し穀物の収穫量が激減した。こうした災難を当時のバリの人びとは、当時の政治的・社会的な混乱の中で神々に対する儀礼をおざなりにしていたことに対する神の怒りとして捉えた[14]。そこで、清浄化のために、バロンの練り歩きやサンヒャン・ドゥダリ(憑依舞踊)が盛んに行なわれるようになり、呪術的な儀礼、演劇活動がバリ中で活性化することになった。ところが、こうした一時的な現象を、オランダ人たちはバリの伝統文化として理解し表象し[15]、震災復興とともに保護を進めたのである。とりわけ復興計画の中心人物だった建築家のモーエンは、バリの真正な伝統文化の存在を信じ、地震前のバリが中国文化やヨーロッパ文化を移入していたことを問題視して、こうした「あやまち」を復興の過程で排除することを目指したが、結局のところ、彼もまたオリエンタリズムの枠組みから逃れることはできなかった[16]。