カクテルサービスとは何か?
カクテルとはお酒とサムシングをミックスしたもの、つまり、ある酒に別の酒を混ぜたり、何かを加えて新しい味を創作した飲み物のこと。お酒とお酒、お酒と果汁、お酒とソーダなどさまざまな組み合わせがあります。その組み合わせによって多種多様な味や彩りを楽しむことができます。古くから伝わるスタンダード・カクテルから、自分だけのオリジナル・カクテルまで、その種類は夜空の星の如く無限にあるといってよいでしょう。 カクテル(かくてる) 酒類とその他の飲料を二種以上混合し、あるいはこれに糖類・果汁・香味料などを混ぜて嗜好性を高めたアルコール飲料。基酒(べーす)としてはアルコール度数の高い蒸留酒が多く、ベース特有の香味はカクテルに深みとコクを与える。また、ベースに焼酎甲類を使用すると、その純粋性のために果実・果汁などの香味がひきたつ。使用するベースの違い、混和する果汁・香味料などの違い、あるいは混和する割合に違いによってその種類も多岐にわたる。 しかし、戦況の悪化に伴い物資、労働の徴集が強圧的に進められるようになると、外国為替の生活は困窮を極めることとなり、1944年の半ばからはジャワと連携した反日本軍運動も見られるようになった[22]。同年9月、インドネシア独立を容認する小磯声明が出され、1945年4月にはスカルノが来島しインドネシア独立に向けて演説。民族団結の気運がにわかに高まり、7月に「小スンダ建国同志会」が結成される。 三浦は日本人として唯一、この同志会に加わり、事務総長に就任、インドネシア独立に向けて活動した。しかし、まもなく敗戦を迎え、独立計画は頓挫。1945年9月7日、三浦は、バリの人びとに対して、日本の国策を押しつけ無理な協力をさせたことを謝罪して自害した。 ングラ・ライの玉砕とインドネシア独立(20世紀中葉) グスティ・ングラ・ライ1945年8月17日、ジャカルタでスカルノがインドネシア共和国の独立を宣言。「小スンダ州」とされたバリでは親共和国派による統治体制の確立が画策されていた。しかし、戦前以来の旧体制の切り崩しが進まず、1946年3月には再びオランダが上陸し、親共和国派の企図は失敗に終わる。このオランダ上陸に対しては激しいゲリラ戦が展開され、そのクライマックスである1946年11月20日には、バリ島西部のマルガにて、グスティ・ングラ・ライ中佐が壮烈な戦死を遂げ、彼の率いていたゲリラ部隊も全滅した(しかし、その勇名は今日のバリ島の国際的な玄関口であるングラ・ライ空港(デンパサール国際空港の現地正式名称)にとどめられている。なお、この際には旧日本軍の残兵の加勢がみられ[23]、このこともあってか現在のバリの人びとの対日感情は良好である)。 如上のゲリラ戦を鎮圧したオランダは、1946年12月、バリを親オランダの「東インドネシア国」に帰属する自治地域として宣言し、旧体制を利用したオランダによる間接統治が敷かれることになった。ただし、このなかでも共和国派と親オランダ派の抗争は続き、1949年にオランダがインドネシア共和国に主権委譲をした後は共和国派が優勢になり、1950年の独立をもって、ついにバリは共和国に組み込まれることになった。 しかし、スカルノ時代のバリ島社会は大いに乱れ、とりわけ国民党と共産党による政治的な対立が地域社会にまで及んだ。1965年の9月30日事件に端を発する共産党狩りの際には、一説によるとバリ島だけで10万人が虐殺された[24]。 スハルト体制下の観光開発(20世紀後半) 外国人観光客の推移(単位:人)[25]総計日本(順位) 1970年24,340-(-) 1975年75,970-(-) 1980年146,644-(-) 1985年211,22248,217(2) 1990年489,71071,383(2) 1995年1,014,085104,819(2) 2000年1,412,839362,270(1) 2003年993,029185,751(1) 2004年1,458,309326,397(1) 2005年1,386,449310,139(1) 2006年1,260,317255,767(1) 2007年1,664,854351,604(1) スハルトによる開発独裁の時代に入ると、バリ島はようやく外国為替証拠金取引を取り戻す。そして、インドネシア政府の周到な配慮の下、観光による外貨獲得を最大の目的とした観光開発が始まり、1970年代以降、世界的な観光地へと成長することとなった[26]。